明治32年の創業以来、多くの著名人が訪れた中華料理の老舗「四海樓(しかいろう)」。その創業者である陳平順(ちんへいじゅん)によって考案された「支那うどん」はちゃんぽんの元祖として知られ、今でも四海樓の看板メニューとしてその味が継承されています。

長崎を代表する大衆料理となったちゃんぽんですが、その誕生にはどのような背景があったのでしょうか? 陳平順の足跡を振り返りながら、四海樓のちゃんぽんが人々に愛され続ける理由を探っていきましょう。

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留学生の食生活を支えた「支那うどん」

ちゃんぽんの生みの親である陳平順が中国の福建から長崎へ渡ってきたのは明治25年のこと。明治27年に日清戦争が始まると華僑に対する風当たりは強くなる一方でしたが、彼は懸命に働くことで苦しい時期を乗り越え、明治32年に四海樓を創業しました。世話好きであった彼は経済的に困窮する華僑や留学生の姿に自分を重ね、彼らの食生活をなんとかしようと福建料理の「湯肉絲麺(とんにいしいめん)」をアレンジして「支那うどん」を開発します。

長崎近海でとれる海産物や野菜をふんだんに使って作られた「支那うどん」はボリュームも栄養も満点で、留学生の間で瞬く間にブームとなりました。明治後期には「ちゃんぽん」の名で同様の麺料理を提供する飲食店も増えていきますが、彼は「大勢の人に食べてもらえたら満足」という思いから「ちゃんぽん」を商標登録せず、それが長崎の食文化発展に寄与しました。

■庶民から国賓まで幅広く愛された四海樓の味

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長崎には「すべっても転んでも四海樓の前でちゃんぽん食わなきゃ腰ゃたたぬ」という古い歌があるそうです。明治40年前後に発行された書物には、長崎市内に十数軒のちゃんぽん店があることが記されていますが、そのころから四海樓は数あるちゃんぽん店の中でも一目置かれる存在だったのではないでしょうか。

大正に入ってからは、ちゃんぽんのおいしさを聞きつけて文化人が多く訪れるようになり、社交場としても繁盛します。その評判は衰えを知らず、昭和31年には四海樓を訪れた常陸宮殿下が献上された皿うどんをお代わりしたそうです。歴史ある四海樓の味は現在三代目の当主に引き継がれ、長崎の街で変わらぬ人気を誇っています。

四海樓のちゃんぽんの特徴

■ルーツは福建料理の「湯肉絲麺(とんにいしいめん)」

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ちゃんぽんのルーツとなった福建料理の湯肉絲麺は、豚肉、椎茸、筍、ねぎなどを具材とし、現在のちゃんぽんと違ってあっさりとしたスープが特徴の麺料理です。現在のちゃんぽんの濃厚さは、陳平順によってアレンジされたものですが、香り豊かなそのスープは雑味がなく、「飲み始めると止まらない!」と今でも評判です。

ちゃんぽんの麺は、小麦粉にかんすい(炭酸カリウム約90%)を混ぜて作られる通常の中華麺と違い、唐灰汁(炭酸ナトリウム約90%)でこねられています。もっちりとした食感の麺は濃厚なスープと相性がよく、食べ応えも魅力。豊富な具材の上に錦糸玉子がのせられているのは四海樓のちゃんぽんならではの特徴です。

■長崎に行ったら四海樓のちゃんぽんを

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四海樓の現在の店舗は、グラバー園や大浦天主堂などの観光地にも近い「大浦天主堂」駅から徒歩1分のところにあります。福建の伝統建築を思わせる5階建ての建物内には、長崎港から稲佐山までを見渡す展望レストランのほか、長崎のお土産品をそろえた名品館や、入場無料の「ちゃんぽんミュージアム」を併設。中華料理店として人気があるのはもちろんながら、観光地としても楽しめるスポットになっています。

まとめ

留学生や華僑のお腹を満たすために作られた四海樓のちゃんぽんは、時代を超えて愛されるヒット商品となったばかりでなく、日本の麺料理の歴史にも影響を与えた伝統の味です。長崎に行ったら、ぜひ四海樓で元祖ちゃんぽんを味わってみてくださいね。

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